段取りが大事だと言われる。むろん大事だ。税金の申告だって、段取りが悪いとエラい目に遭う。でも最近は、乱取りに執心している。柔道の稽古のことではない。手順を踏まない作業のことだ。
数年前、家内と伊豆の山中をクルマで走った。早春のころで、枯れきった木々が何となく薄桃色に見える。芽吹きが近づいていたのだ。これが山笑うということだね、などとゴキゲンに話しながら、同じ道を3往復した。出発前のホテルに忘れ物をしたことを目的地近くで気づいて取りに戻った。目的地の踊子温泉でひと風呂浴びてホテルに引き返したら、また忘れ物に気づき、踊子温泉にとって返した。
3往復もするうちに、山道のカーブや、崖から水が流れ出てそこが陰になっているために凍ったままのところや、山が急に開けて別世界になるところを、何となく覚えてしまった。なんだか馴染みの土地になった気分だった。
ミスをかえって良かったことにするなんて都合のよいゴマカシ方だけど、このときの山中の情景は、いまでもありありと思い描けて懐かしい。
段取りや注意が足りなくて、1度で済むことを2度も3度も繰り返すのは愚の骨頂だが、そんなことにもそれなりのご利益はあるのかも知れない。とまあ、こんな前兆があった。
もうひとつのキザシは、草取りをしていたときだった。安房勝山に別荘があったころ、庭が広くて草取りが大変だった。着いた翌日は朝から草取りに専念しなければいけない。〈草取女観光団に顔をあげず 宮本翠舟〉みたいに、わけもなく腹立たしさが込み上げてくるのが草取りである。庭をコンクリートにしてしまいたい、と思うこともあった。
段々おっくうになって、草取りではなく、芝刈り機で草刈りをするようになった。まあそれで済ませていたのだが、どこかから飛んできたゴミのひとつふたつが気になって拾いに出ると、刈られた草が根のあたりでニッカリ笑っているようでシャクに障る。チョイとしゃがんで取ってみる。するとその隣が気になる。隣を取ると、近辺が気になる。気づいてみるともう3時間も草取りを続けているではないか。家内が「お昼よ、お湯を浴びてきて」と叫んでいる。
つもりも段取りもなく、チョイとやってみる、というのはなかなかなやり方だと気がついた。ぼくは生涯でいろいろなことに気づいてきたけれど(悪いけど、で始まる話をする人は、決して悪いなどと思って話をしているわけではない、とか)、段取りなしのチョイとやりの効能は、一番の気づきかも知れない。
原稿書きが始められないときに、チョイと3行だけでも、と書き出して、そのまま書き終えることができるようになった。家内が短大の学生のテストの採点に手をこまねいているとき、5人分だけやってみたらと勧めて、楽々やり果せて感謝された。調子に乗って親戚の子供たちを集め、さあこれから5分だけやるから今日の勉強はすぐに済ませなさいと言い放ち、2時間も夢中になって勉強させた。その間子供たちは、おじちゃんあと10分でいいから時間ちょうだいと、身も世もないといった懇願ぶりだった。
ついでにもうひとつ。家の中で、身の回りのものや文具を整理しないように心がけている。そうしておくと、何かするときに、あっちに取りに行き、こっちにもどって確かめ、部屋を出ては水を一杯のみに行く、ということになる。で水を飲んでデスクに戻ってパソコンを前にすると、はて、何をするつもりだったか。
こんなときは、動いた跡を逆にたどるのである。すると2回に1回は、何をやろうとしていたかを突き止められる。突き止められないときは、たいして大事なことではなかったということで、そんなことを始めなかったことを喜ぶ。
こんな風に、段取りとか、整然とか、熱力学の第二法則に逆らうようなことを遠ざけて、乱取り一本に変えていったことで、成果がぐんぐん上がってきた。歩数計の数字が伸びてきたのである。
2021/4/8 NozomN
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