江戸時代、旗本、ご家人は金がないから、俸禄の蔵米を売って金に換えていたが、その一切の手続きを請け負ったのが浅草蔵前の札差だった。山本一力が『損料屋喜八郎始末控え』の中でそう書いている。札差とは、受取人の名を書いた札を藁苞(わらづと)に差すことで、そこから職業呼称になった。換金から金貸しへ、高利貸しへと変質したので、江戸人情噺の敵役として、なくてはならない存在なのである。
中国でも古くから竹や木の札を作り、物の名前を書き、いたる所に刺しつけたので、名札一般を刺というようになった。刺を辞書で調べれば名刺と出てくるのはそのためだが、名刺の素材は紙になり印刷までするようになったから、今では自らに刺して自らを表示することはしない。その代わり、相手の名刺入れに刺しこみ、もってわが名を相手の胸に刻もうとする。日本文化を逸脱して、不思議な風習が生まれたものである。
というのも自己主張が強く、自己宣伝に忙しい欧米でも、名刺をそこまでの刺客に仕立て上げた例はないからだ。名刺を英国ではvisiting card、米国ではcalling card、仕事用の場合はbusiness cardと呼ぶ。name cardはパーティなどのときに使う名札で、まさしくわが胸に刺して表示する。米国では、business cardを会う人ごとに配布すれば奇異に見られるだろう。必要があれば、秘書のテーブルにある名刺箱から持ち去ればよいことになっている。しかし日本のビジネスご一行を相手にするときは、名刺のおねだりが激しいので、用意を怠らない米国人もいる。ただし、丁寧な名刺交換は期待しない方がよいだろう。たいていは、トランプ・カードを配るように、放り投げてくる。
とは言え、日本の名刺交換儀礼にも捨て難いものがある。正しく仕事をしたような、オフィシャルな立場を保持したような、仕事の決まりをつけたような、そんな気持ちが持てるのである。「できる男女の仕事術」各巻を紐解けば、名刺の効用や整理活用の秘術が書き尽くされているから、これも捨て難い。とにかく名刺は捨て難いのである。しかしこれを捨てたらどうなるか。
とても気持ちが良いのである。名刺を捨てると、相手との真正の関係だけが見えてくるから、無駄な動き、虚しい足掻きから解放されるのである。だから、カチョーになってまず取り掛かるのは、溜まった名刺を捨てることだとお勧めしたい。忍び難きを忍び、捨て難きを捨てるのである。不安ならば名刺スキャナーなどで読み込んでおけばよい。デジタル化しておくと、たいていは安心して使わなくなることがネライだ。ということで、この文脈に沿って人脈についてのひと講釈を。