カチョーを拝命したら、標準化とは付かず離れずの位置にいて、その先頭に身を置かないことが得策である。標準化はルールを必要とするが、そのルールは貧しく、貧しいルールで育つブカは貧しくなり、貧しい部下を育てるカチョーはさらに貧しくなるからである。なぜって標準化って、最低線ネライでしょ。全人生を賭けて、そんなものをネラってたンじゃねぇ。貧者への一等賞争いじゃあるまいし。
ルールはあっても良いけど、たいていの場合はやり過ごして大事ないだろう。カチョー代理をカダイ、ブチョー代理をブダイと呼ぶ会社のルールを知らずに咎(とが)められたら、「あ、こりゃ失礼」と恐縮すればよい。役員に挙手の礼をする習慣を知らなくて叱られれば、「そこをひとつお平らに」と謹慎の態を示せば済む。しかし腹の痛いブカがいれば、すぐに助けなければならない。サボりぐせのつきはじめたブカがいれば、たっぷりと叱ってあげねばならない。そんなことは会社のルールにないなんて、トボケたことは言いっこなしですぜ。だって、会社のルールの最低線に張りついていたら、人の精神の生き死に無頓着の餓鬼道に、真っ逆さまってことですぜ。
たいがいのルールは「失礼!」とやり過ごして良いが、本家本元の「礼」に対してだけは「失礼」してはイケナイ。ここが、精神の生き死にの瀬戸際だからだ。標準化を支えるルールは生産性をもたらすが、礼は人生をもたらしてくれるからである。カチョーが真に欲するものは生産性ではなく、花も実も成るブカの人生である。ついでに、花も実も成るわが身、わが連れ合い、わが子の人生である。これをもたらしてくれるものは礼であり、断じて標準化ではない。したがって標準化への密やかな、しかし強力なファイナル・ウェッポンは、礼を措(お)いて他にはないのである。
では礼とは何か。概略すれば、人として行うべきを行うことである。人として行うべきでないことを行わないことである。細かいことはどうでもよろしい。この大義をさえ肝に植え付けておけばよいのである。礼の旧字は禮である。示は神様のことで、豊は神様に供えられた豆のことである。礼という供物を自分と世間様に備え続けているかいないかは、神様がちゃーんとお見通しだということなのさ。標準化のルールよりも神様の礼の方が、層倍もハードル高いけれど、一生モノだからね。