傷口を治すのはぬり薬だが、傷口に巣くって繁殖繁栄しようとする細菌にとって、ぬり薬は毒である。X線は人体に毒であるが、これを微細にコントロールして照射すれば、ガン細胞にだけ毒を及ぼし、人体全体を救うことができる。つまり毒とは薬であり、薬とは毒なのである。
常々迂闊(うかつ)な振る舞いを注意されていたのに一向に改まらず、遂に大金を落としてしまった男に言うに「いつかはこうなると思っていたよ。イイ薬になるだろう」。甲斐性なしの男とばかりつきあって貯金残高を減らし続け、遂にはケチなワルに身ぐるみ剥がれた女に言うに「まあまだ若い。人生の残高も少しは残っている。今度ばかりはイイ薬になっただろうよ」。酷(ひど)い経験、惨(むご)い体験がイイ薬というのだから、薬とは毒なのであり、毒とは薬である、とみて間違いなかろう。
先人はトリカブトの塊根(かいこん、貯蔵物質で肥大した根)の毒に中って死屍累々を(ししるいるい)築きながら、なおこの毒を逃げずに適量処方を編み出して、神経痛やリュウマチを鎮めようとした。キノコにもフグにも毒ありと見れば、これを薬に使えぬものかと着想した。エライ!
打って一丸火の玉だ!というと、真っ直線の強い組織に見えるけれども、耐久レースに脆(もろ)いことは、軍国日本や硬直社会主義国が満天下に見本を示して明らかにしてくれた。強い組織は毒素としての異物・異見を内包していて、多少始末が悪く見えるものだ。しかしたとえば、持続して商品開発力を誇る会社には、新発想、新技術の一々を論(あげつら)う古参がいて、これが提言を阻む便秘胎毒の元と見做されがちだが然に非ず。商品開発を確かなものにする健全なバリアー、即ち浮かれ防止薬なのである。てな軽めの効能から、組織寿命に関わる重要効能までを見据えて、毒素内包組織とはカシコイ組織の謂(いい、意味)である。
同じように、我が身の中に持てあまし気味の毒素を見つけたら、無闇にこれを退治しようとしてはならない。折に触れての性格検査や行動特性検査、あるいは同僚上司との話で露わになった我が身の尖(とが)り気味の毒物は、石鹸でキレイキレイに流し去りたい衝動をもたらすが、我慢してなるべく大事に温存するのが、適正生存のコツである。温存した尖り状の毒を飼いながら生きるのは、なかなか荷厄介なものだが、いざという時には必ず薬効を顕してくれる。え、尖り状の毒とは何かって?依怙地、嫉妬、頑固、非協調、拘り、一皮剥けない、幼稚、思い込みなど、偏頗(へんぱ、考えや立場が一方に偏っていること)の素がそれだろう。いずれも毒はあっても悪意はない。