ウイリアムテルが我が子の頭に乗せたリンゴを射抜いたのも、那須与一が波間の小舟に平家が掲げた扇を射落としたのも、絵空事である。スティーブン・ハンターが『極大射程』などで描いたベトナム戦争屈指のスナイパー、ボブ・リー・スワガーの腕前も、小説中のものだと考えた方が無難だろう。それほど何かを何かの真ん中に当てることは至難なのである。つまりほとんどのものは、真ん中に当たらない。さらにほとんどのものは、当たりもしなければ触りもしないのである。
ヒトにとってもソシキにとっても、毒がド真ん中に当たって障りがでるということは、滅多に起こらない。当たっても軽症で済むか、それがかえって薬になるくらいのものである。それなのにたまたま毒がドンピシャリと当たってしまったら、事態は深刻である。この場合は当たるを中るに置き換えて、中毒と書くほどである。
中毒とは毒がドンピシャリと中ることである。なぜドンピシャリと中ったのか。毒の有能もあろうが、大抵は的が大きかったから中ったのである。普通なら的外れの部分に射掛けられた矢も、的が大きすぎたので、的中ですと言われたようなものである。
毒が毒性を発揮できる的の本性(ほんせい、欠くことができない本来の性質)は脆弱腐敗である。この脆弱腐敗を的として大きくしてやると、毒は中りやすくなるのである。モラルなソシキに非合法が矢を射掛けてもドンピシャリと中らないが、インモラルなソシキに、たとえばセクハラが矢を射掛けると。多少的を外しても中りとなって、毒がソシキの体内を駆けめぐるようになる。敵は外から襲うやに見えるが、敵を招き入れるものは身の内で醸成されているということだ。