サッカーは球を奪い合い、スペースを奪い合い、身体をぶつけ合うが、観客は誰もこれをケンカだとは思わない。また時に選手同士が小突き合い殴り合う様子を見て、これを球技の延長と了解する観客はいない。球技とケンカは形が似ても、内実は非なるものであることを大概の人は知っている。
あれはケンカであって球技ではない、と見分けがつくのに、ケンカと議論の見分けがつかない人がいる。見分けがつかないのは、大抵はケンカをしている当人である。次にはケンカを仕掛けられている相手である。最後はそれを見ている周りである。つまりケンカと議論は、総じて見分けがつきにくいのである。
とは言え、サッカーとケンカの違いも議論とケンカの違いも同根で、テーマのために闘うか、小我(しょうが、個人的な狭い自我)を満たすために闘うか、が分かれ目である。サッカーではこれがハッキリ見えるのだが、議論では見えにくい。見えにくいから目を凝らして見る必要がある。テーマを推進するために放たれたひと言は、議論のためのものである。そうでない発言は、大概は保身かケンカのためだと見てよろしい。保身もケンカも目標は勝つことではなく負けぬことである。負けて小我が傷つくのが我慢ならないのである。手のケンカなら最後のひと突き、口のケンカなら最後のひと言は自分が放って終えたいのである。相手が同レベルの人間であれば、相手も同じように振る舞うので、ケンカはなかなか止まないのが常である。
小人が小我に囚われて、小さな優位を確保するのを妨げてはならない。相手優位当方劣位であれば、相手は満足するのである。当方の小我を満たしたところで、大我(たいが、狭い執着から放たれた自在の境地、小我も大我も仏教のことば)は得られない。逆を言えば、小我を損ねても、大我が揺らぐわけではない。負けるが勝ちとはこのことだが、議論において負けられない小我に追いつめられやすいのはカチョーである。モノや地位やプライドは、持ち惜しみすると小我の原材料に変じるのだ。このとき、負けるが勝ちとケンカを降りるのは部下である。よく見かける「小人カチョーと君子部下との図」。心すべきですなあ。