会するとは、集まり寄り合うことである。議するとは、集まって意見を述べ合うことである。このように、会議には集まるという意味が二つも重なっている。とにかく集まることが大事なのである。とまぁ、広くそう思われているフシがある。
人が互いに接触すればそこには必ず跡が残る。というのは犯罪学の定説だが(エドモンド・ロカールが提唱した「ロカールの交換原理」ね。ジェフリー・ディーバーの『リンカーン・ライム・シリーズ』に頻出)、罪など犯さなくても人と人が会すれば、互いに何かを与え合うものだ。接触とは相互波及なのである。しかし会議は天然自然の相互波及を望んで開かれるものではない。テーマを持ってお互いの考えや意見を述べ合うことに眼目(がんもく、重要な点)がある。でも運営に余程の気配りをしないと、考えも意見も述べない部下がいることは貴台ご実感の通り。
考えも意見も言わぬ部下は毒にも薬にもならぬ存在だ、と錯覚してはならない。何も言わないから皆と同じ方向を向いたのかと思いがちだが、同じ方向とはどの方向かを理解していないから、同じ方向は向かないのである。同じ方向を向いて隊列を組めば、いささかの義務や努力が必要なので面倒くさいから、同じ方向は向かないのである。論語に「小人は同して和せず」とあるのはこのことである。何も言わぬ同調風でラクをした上に、隊列をそれとなく外れてラクをする部下がいるのである。それに気づかぬ下手な会議の連続は、同して和せずの部下を増殖培養することになる。
ということで、考えを言わせ意見をぶつけ合わせる会議にするには、事前に課題や議題を示して全員にレポートさせ、全員のレポートを読み合わせることから始めるのが上策である。論語に「君子は和して同ぜず」とあるような君子に、部下を仕立て上げてやるのがカチョーの務めなのである。