部下に始末書を書かせなければならない。はて、始末書はどのように書くのか? で、次には、長期休暇届はどう書くの? こんなことを万度(ばんたび)考えてはならない。その度に考えていたら、一回こっきりの泡(foam)のような、儚(はかな)い仕事を重ねるだけだ。
役に立つのはひな型(form)である。何回も使い回せる。定型だから、これまでの記入記述を参照できる。始末書や長期休暇届と来たら、一瞬も考えずに書式の在処(ありか)を目指すのがカチョーの王道である。
ただし、ひな型使いに長(た)けても、だからどうした!ってなモンである。そんなことだけで優秀カチョーだとは思われない。出来てフツー、出来なければ非フツーだと思われるだけである。カチョーに真に求められるのはひな形(form)なのである。ひな型ではなくひな形が欲しいのだ。部下が風邪で高熱を出し、部下の顧客が部下に喫緊の処理を求めているときに、如何なる手順で、如何なる手立てを講ずればよいのか。部長の依頼に割り込んで、本部長から緊急処理案件を持ち込まれたら、どう対処すればよいのか。その度に深く惑い考え込んでは、コトが進まないのである。処理や判断のひな形を持ち合わせていなければ、用が足せないのである。だから真のカチョーは、ひとつコトを処す毎に、それを処理と判断のひな形資源として成形し、ストックすることに相務めるのである。しかも古手(ふるて)の先任カチョーともなれば、ひな形があるということだけでなく、その処理全体のフォームが美しくなければならない。
留まる水は濁る。昨日の先進も明日の旧態になりかねない。判断のひな形は先人の知恵と自身の体験が五対五のブレンドで独特のフォームを作っているから、双方の老朽劣化と機能低下に手を入れる必要がある。風害水害光害間断(かんだん)なき世相だから、二年に一度のリフォームをお勧めしたい。