「花の名前」で触れた吉田鴻司先生は、2005年10月26日に亡くなった。翌月、ぼくは先生への感謝を下のように書き留めた。
みちのくの田より時雨れて猫もどる
奥比叡の風をちからにゆりかもめ
吉田鴻司先生の『頃日』は、この句から始まっています。「奥比叡の風をちからにゆりかもめ」は、ボクが会社勤めを辞め、鴻司先生に初めてお会いする直前の、1984年に作られた句です。この句に出会ったとき、自分もこうした生き方を目ざすのだろうなあという予感を持ちました。
一月のよろづ屋に来る鴉かな
『頃日』は鴻司先生の第三句集として1994年1月に上梓されました。このときのことはよく覚えています。先生を囲む「わらがみ句会」のメンバーと、わらがみ句会のメンバーだったぴあの矢内廣さんが社内の句友を集めて作った「ぴあ句会」のメンバーが一堂に会し、句作三昧の愉快な一夕を共にしました。このとき、『頃日』の見返しに「一月のよろづ屋に来る鴉かな」を書いていただきました。外には雪が降り、焼酎のお湯割りを散々に呑んでお顔が俳句色に火照った鴻司先生は、皆の句を片端から「ダメ、ダメ、ダメ!」と斬って捨てていました。いつもはそんな言い方をなさいませんが、皆が詠んだお祝いの句を前にして、鴻司先生は照れて照れて駄々をこねているのでした。
一燈へ冬田の四囲の畦細る
一部屋の出作小屋の秋の風
一睡の中の神なれ栃の花
一燈の島こそ八十八夜なれ
一の酉過ぎて蕎麦湯の薄き味
一の蔵見えはじめたる猫じやらし
一の重に足る喰積や雀来る
弟子たちは『頃日』の見返しにそれぞれの句をいただきました。その中でなぜボクに「一月のよろづ屋に来る鴉かな」を書いて下さったのかはわかりません。順番に書いていたらこの句になったのかも知れません。でもこの句をいただいて以来、この句も句頭の「一」も好きになりました。「一」はまるで鴻司先生のように、外連見(けれんみ)がなく、万度(ばんたび)初々しく、直截で、比類のない字です。探してみると上に挙げたように、鴻司先生には一で始まる句がいくつかありました。
電工の降り来て枯色動かしぬ
明日も勤む工衣冬日を羽ばたきて
鴻司先生は1958年(昭和33年)に角川源義に出会って師事し、「河」の創刊に参加します。上の2句はその翌年の作です。当時40歳だった先生は、親戚がやっていた鉄工所の若い跡取りを助けるために町工場に通い、そこから秀句の量産が始まったようです。この句をお作りになった年には第一回河賞を受賞しています。
短夜やよく動く師の喉仏
鴻司先生は1918年(大正7年)のお生まれですから、87年間を生き抜いてこられました。80歳を祝う「傘寿の会」は、わらがみ句会、パピルス句会、その他の句会が寄り合ったすこぶる愉快な集まりでした。その席で先生を詠んだ句を出し合い、特選を取ったのがわらがみ句会・箭内忍さんの上記の句です。先生は自らを「痩せ鴻司」と詠うくらい、骨と皮の他は酒が出入りする胃の腑があるばかりといった風情の方でした。「よく動く師の喉仏」は、骨と皮の先生が口角泡を飛ばす勢いで句論の真ん中にあるお姿をよく映しています。その骨と皮をこれでもかと捩ってカラオケを歌うことが、鴻司先生の何よりの楽しみでもありました。
青天へもらはれてゆく花吹雪
手の見えて手の消えてゆく風の盆
おほぜいが大仏を見て涼みけり
天国の扉のしだれ桜かな
まるで自然と音楽と心象が一如になったような句を紡ぎ出す平山雄一さんの句集『天の扉』は、もちろん平山雄一さんの著作ではあるのですが、同時に鴻司先生が才能に出会ったときの彫刻の凄まじさを思わせる句集です。先生は河という結社の主宰代行というお立場にありながら、結社とは無縁の、雑木雑草のわらがみ句会も愛おしんでくださり、上の句を生み出した平山雄一さんを、日本の文芸界に送り出す産婆役もされたのです。
外食をしたき夕方山の藤
面白きことに思へて落ち葉掃く
そのような大才能もいれば凡愚もいるのが、わらがみ句会でした。鴻司先生は大才能に対すると同じように凡愚にも目をかけてくださりました。上の句は先生が選んでくださったぼくの句です。こんな句を作るぼくに対して、先生は文芸的な細かな指摘はしません。「うーん、出てるなあ、わかるなあ」
房総の海へ落つると石蕗の花
句会と先生が好きなのに、句を作ることが嫌いなぼくは、いつも句会に出す3句がなくてピィピィしていました。句会の時間が迫っていよいよ困り果てたとき、家内がぼくを真似て作り始めていた句を二つ三つ持ち出し、句会に出しました。そのひとつが上の句です。あろうことか先生はこの句を特選にしてくださり、「のぞむさん、出てるねえ、うん、よく出てるよ」と仰って下さるのですが、ぼくは「石蕗」を何と読むかも分からずに困り果てていたのでした。
切り干しのほとびて夜の深さかな
棒のやうに狂ひてをる桜かな
山紫陽花雨の真中にありにけり
句作嫌いを知り、家庭内剽窃を知り、上を望めない凡愚を知り、それでも鴻司先生はぼくのような者にも目をかけてくださいました。上のは珍しく特選をいただいた“自作”です。「切り干し」が選ばれて名乗り出たら、「あ、のぞむさんが作ったのかあ、それだったらダメだなあ、ちょっと上手すぎるからねえ、芭蕉が作ったのならいいけどねえ」。「棒のやうに」のときは、「やっぱりのぞむさんだったの、いいねえ、出てるねえ、のぞむさんがホント出てるねえ」と喜んでくださいました。
節分やわが身の鬼の在りどころ
鴻司先生は皮肉な句も自省の句も暗い句も詠まず、新しく明るい句を好んで詠んでおられました。それなのに暗い自省の句を厭うこともなく、「のぞむさんの中にも鬼があるんだねえ、出てるねえ」と仰って下さるのでした。
青葉潮マストの林立望むべく
12年続けたわらがみ句会を辞めたあと、ぼくは久しぶりに本を上梓しました。そのとき、わらがみ句会のメンバーが出版祝いをしてくれました。出席いただいた鴻司先生に、「辞めてしまった者のためにお出ましいただいて恐縮です」と申し上げましたら、耳元で「わらがみ句会が河と近づいてきたから辞めたんだね。のぞむさんらしいねえ、いいんじゃないの」そう仰って下さいました。そしてぼくの名を織り込んで作ってくださったのが上の句です。
君はまだ、青葉が海の流れに映るような夏の季節に生きている人だ。だからのぞむさんらしい帆をもっともっと上げたらいい。自分を自分らしく生きたらいい。鴻司先生は「青葉潮マストの林立望むべく」でそう仰ってくださったのでした。
爽やかに道つづく日や鴻司逝く
先生、本当にありがとうございました。
2021/5/26 NozomN
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