庭園美術館にチェロを聴きに行って眠るつもりだったのに、朝から脚が攣(つ)ってなかなか治らない。近ごろ攣ることが多くなっていたのは確かだが、今回は治ったように思えても、しばらくすると脚のどこかがふるふると震えてきて始末に負えない。で、チェロを聞きに行くのは止め、家内が一人で行った。
帰ってきた家内が演奏の様子を報告してくれた。「前の席のベレー帽の老女がね、首を曲げて眠ってしまってね、ときどき起きてまっすぐになるんだけど、また首を曲げて眠るものだから、前が空いてとっても演奏が見やすかった」
この話はただの笑い話ではない。ボクは演奏会や芝居に行くと必ず眠ってしまうので、ボクが行かなくても同じような人に出会ったという、含み笑いが混じった話なのである。ボクは一緒になってあははと笑いながら、ちょっと涙が出たあと、待てよ、とひらめいた。
これまでコックリするたびに、何かが思い出せず、もどかしい気持ちになっていたのだ。コックリは毎日だから、毎日もどかしかったのである。ひらめいたボクは部屋にもどり、Macの中を漁って見つけた。もどかしさは、アランの『人生論』の中にあった。
眠りにたいする真の準備は、ほんとうに横になること、すなわち、もうこれ以上は落ちようがないという位置にからだを置くことにある。この配慮を欠くと、わずかな努力といくぶんの自己監視とによってからだの平衡を保つことになるが、これはすでに眠りとは反対のものである。というより、すこし不安定な姿勢で眠りこむと、眠りによってからだが弛緩する結果、その人はすこししたへ落ち、そこで目がさめてしまう。腰かけて居眠りしている人が一瞬ごとに頭が落ちて目をさますさまは、だれしも見たことがあろう。本を読みながら眠りこむと、本を落とし、そこで目がさめる。ところで、眠りに落ちることが実際に一つの小さな落下となり、これが私たちの目をさますためには、片手が落ちるところまで落ちていないだけでじゅうぶんである。重力にたいするわずかな抵抗、緊張して保たれているわずかな平衡、これがあればじゅうぶんなのだ。このことから私は、うまく眠りこむにはあおむけにかぎると結論する。私たちのからだが、自分の重さによって水平になった液体の形にもっとも近づくのは、この場合なのである。
そうだ、日常をこんなに精緻に分析するのはアラン以外にはいなかった。このあと彼は物理学を持ち出し、形あるものは安定した最上の状態を目指すから、寝床は柔らかい不確実なものより堅い方が良く、足は靴をはいたままの方が安定する、などと論じている。
そして熱力学の第二法則と行動心理学と説教を混ぜ合わせたような熱弁は、人のあり方へと怒濤のように進んで行く。
眠ること、これはしばしば一個の問題であり、しかも私たちは、あらゆる人間的な問題にたいして態度を誤るように、ここでも態度を誤る。からだこそ私たちの力の場所であるのに、いつもこれを忘れる。そして、乗り気が出るのを待ったりする。だが、からだを仕事にむければ、気持ちもすぐ乗ってくるだろう。腰をおろし、からだをおこし、筆をとれば、考えは変わる。素朴な人は、考えを変えようとすれば、頭をふり、腕をのばし、肩をあげる。そして、この方法はだれにでも有効なのだ。
からだを動かさねばならぬ。思索する人で成功するのは、行なう人だけである。たとえ完全には行なえなくても、とにかく何かが知覚される以上、正道に近づくのだ。だから、数学者を見たまえ、自分に対象を与える術を数学者はなんとよく知っていることか。実際、図形を描くにせよ、数をかぞえるにせよ、組み合わせ移動するにせよ、彼はつねに指で考える。頭で考えるのは、情念にとらわれた人だけだ。それにじつは、彼は頭で考えることもできぬ。身ぶりが想念を運び、物をさがす。だが、物はない。狂人は身ぶりがいちじるしく、賢者は行動がいちじるしい。そして芸術家とは、身ぶりに従って対象をかたどりつつ、狂気から知恵へと移る人であり、これによって、彼の想念は実存へと移される。からだがゆり動かされるところには狂気があり、からだが働くところには知恵がある。
ボクはすぐに指を動かし、iPadを立ち上げて幡野広志の写真を探し出した。写真を見て心がふるふると震えたようだった。でもそれは攣(つ)るような感じではなかった。なるほど、心は攣らないのだ。
2020/1/23 NozomN