会社員はアパート型、デパート型、アパート&デパート型の、いずれかの型で住み暮らしているとわかった。ンで、それが何なのかと性急に問われれば、とくに何ということはない話ではある。とくに何ということはないが、部分というものの不思議な存在にゆっくりと思いを致せば、カチョーのマネジメントのカン所が、つかめるかも知れないのである。つかめないかも知れないけど。
パートは、パートであるくせに全体とピッタリと関わっており、全体は、全体であるくせにパートによって成り立っている。この密接な妖しい関係が壊れると、パートも全体もお互いに変質する。たとえば、もしパートを全体から取り外せば、そのパートはふたつの変質に向かうだろう。ひとつは、前の居場所である全体のDNAを引き継いで、新たな全体として生まれ変わる変質。ひとつは、しばらく惰性でパートとして生きながらえたのち、生命力を失いゆく変質。
ここで、ブカの生命力を奪わず、壊死させないようにするには、ブカをパートとして取り扱うことに腐心することが肝心なのだ、と主張したい。ブカをパートとして取り扱うということは、すなわち、ブカを全体と密接に関わらせるということに他ならない。このやり方を、パーティシペーション(participation)という。パーティション(partition)は部分化のことで、パーティシペーションは部分化したものに命を吹き込むことである。辞書には、参加、参与の意味が見られるだろう。ブカをパートとして取り扱うということは、ブカを全体に参加、参与させることなのだ。
ブカをパートにしてやることが、ブカを生かす道である。では、どのようなパートにすればよいのか。会社が夢見るビジョンの一部を担わせること、会社が獲得したい組織能力の一部を担わせること、会社が目標とする利益の一部を担わせること、会社の喜怒哀楽の一部を担わせること、これがブカを生かす道である。これがなければ、ブカは壊死し始める。生理的には堂々と生きているから気がつきにくいが、会社員として壊死し始めるのだ。壊死を前にした気の利いたブカは、壊死しない新組織を求めて、初めから全体であり部分である独立を求めて、会社からスタコラと逃げ去る。
参加とは、全体に加わることである。参与とは、全体の一部を与(あずか)ることである。これがパートな状態になるということである。会社にあっては、ブカをそのような状態にすることがカチョーの責務だが、個人生活にあっては、自らをそのような状態にすることが自らへの責務である。パートな状態にならないと会社員として壊死するが、会社員は壊死する前に会社から逃げ去ることができる。独立を果たすことができる。しかし、パートな状態になれない生活者は、壊死に代わる道がない。
指を折って数えてみるとよい。カチョーとして与っているパートは何と何であるかを。生活者として与っているパートは何と何であるかを。与るものがあまりに少なくても、ガッカリすることはない。与るには筋力が要るから、筋力トレーニングをしたのち、自らが引き受けられそうなパートを、黙って引き受け始めれば良いのだ。筋トレとしては本を読むこと、人の話を真剣に聞くこと、機会のあるところにすぐ出かけること、この3点に絞れば十分だろう。