日経新聞朝刊の連載小説『ミチクサ先生』が終わって少しさびしい。
伊集院静の本をあまり読んでないので当てずっぽうなのだが、実在したモデルを主人公にした物語が上手なように思う。『いねむり先生』は彼の自伝小説ということだが、ここに出てくる「いねむり先生」の色川武大(つまり阿佐田哲也)の描写にも情がこもっていた。ミチクサ先生の夏目漱石もいねむり先生の色川武大も、伊集院には大事な人だったのだろう。
伊集院は最愛の妻を亡くした後、アルコール依存症やギャンブル依存症に陥るが、このとき出会ったのが色川武大だという。ギャンブルの元締めみたいな阿佐田哲也の凄味がすっかり剥がれてしまった色川の、飄逸で、ダメになりかかっていて、それゆえの大度な凄味が漂っていて、それにすがるようにして、またすがらぬようにして、伊集院は再生する。
その最愛の妻の名が夏目雅子だったので、夏目つながりで漱石を書いたのではないだろうけれど、案外、そうだったりして。
みんなが夏目漱石を読んだように、ぼくも夏目漱石を読んだ。中学生で、大学生で、30台後半で。その後、何がキッカケだったかは忘れたが、漱石ゆかりの人たちの本も読んだ。
夫人の夏目鏡子の『漱石の思い出』(娘婿の松岡譲の聞き書き)、息子の伸六の『猫の墓』、長女筆子と松岡譲の娘(つまり漱石の孫)の半藤末利子が書いた『漱石の長襦袢』、その姉の松岡陽子マックレインが書いた『孫娘から見た漱石』、その他いろいろ。
松岡陽子マックレインを読んだいきさつだけはハッキリしている。ポートランドやオレゴンに関わる書籍を探していたとき、大庭みな子の『オレゴン夢十夜』を見つけた。この中に松岡陽子が登場してきたのだ。
大庭みな子は、津田塾大に通っているときに「この高名な漱石の孫である先輩を遠目に見た」ことがあった。しかし話したことはない。それが日本文学を講ずるために赴任したオレゴン州立大学で、比較文学論の教授となっている松岡陽子に再会し、交友を結ぶことになる。
この経緯が面白く、ぼくは芥川賞を取った『三匹の蟹』を始め、大庭みな子がアメリカと関わった小説をいくつか読み、松岡陽子マックレインの本もいくつか読んだ。
松岡陽子さんはオレゴン州立大学があるユージーンにお住まいだった。ぼくはポートランドに行くたびに彼女を訪ねたいと思いながら、何のツテもキッカケも用事もないまま、彼女は2011年11月に亡くなってしまった。この年にはポートランドに行かなかった。東日本大震災の年だった。オレゴニアン新聞の電子版で彼女の訃報を知り、しきりに後悔した。
そんなこともあって、漱石ゆかりの人たちや弟子たちの系譜が何となく馴染みがあり、伊集院が描いた『ミチクサ先生』の世界はとても懐かしかった。
漱石が正岡子規と出会ったのは22歳のときで、大日本帝国憲法や皇室典範が発布された1989年だった。時代のすぐ手前には明治維新があり、西郷隆盛や板垣退助、大久保利通や岩倉具視がいた。時代の先には日清、日露戦争が待っていた。日本が近代化へとひた走り、高揚している時期だった。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた世界と重なっていた。
こんな懐かしい近歴史を、『ミチクサ先生』は一気に広げて見せてくれた。改めて漱石の娘の筆子(松岡陽子マックレインの母親)との破談を書いて「事件」となった久米正雄の『破船』(港区立のいくつかの図書館では『現代日本文学全集 第32篇 近松秋江集・久米正雄集』に所収)を読んだ。続けて『坊っちゃん』『草枕』『虞美人草』『それから』を読み直した。
とても不思議だった。『坊っちゃん』は古いおもちゃで遊んでいるような、懐かしいけれども感興が沸かない感じがした。『草枕』も没入できず、『虞美人草』と『それから』は読むのが面倒な感じがしてしまった。ぼくはどうなってしまったのだろう。
『坊っちゃん』は分からないが、『草枕』以降にはテーマも物語もある。ぼくはテーマや物語に関心がなくなったのだろうか。明治時代のレトリックや洒落た言い方、深刻を書いて洒脱に受け流すという文体に、何も感じなくなったのだろうか。
そう言えば映画で思い出すのも、筋書きやビックリするような仕掛けではなくて、切れ切れのシーンばかりである。『モロッコ』は時代性も話題性もあったのだろうが、それがすっぽり抜け落ちて、戦地へ征く男たちを女たちが追う場面が浮かぶ。その男たちの中のゲーリー・クーパーを、男たちにも女たちにも遅れて、クラブ歌手だったマレーネ・ディートリヒが追う、その場面ばかりが浮かぶのだ。
観たのに覚えておくことができなくなり、読んでも掬いとることができなくなった。近ごろ読んだ朝井まかての『阿蘭陀西鶴』でも、談林派の俳諧師から浮世草子作家になった西鶴という男の真骨頂を、盲目の娘を通して語るという趣向に感心したのだが、思い出すのはつぎのようなくだりばかりである。
さっと茄で上げたそれには、掌を押し返すような水気がたっぷりと残っている。包丁の刃先で根元を落とし、ざくざくと切り分けていく。両の手をいちいち動かして寸法をたしかめずとも白菜は三寸五分になっていて、このきちんと揃った巾と迷いのない切り口が舌触りと噛み心地を左右するのだと、おあいは思っている。(同書)
盲目の娘おあいの包丁の音とリズムだけが、いつまでも残るのだ。
2021/8/4 NozomN