決めるためには常識が強い味方だ。
だが、常識もマーケティングも、ちょっとした欲求不満をもたらすことがある。決めるのは自分なのに、他人に決められている感じがつきまとうのである。輪郭を与えられて塗り絵をしているような、誰かの言いなりになっているような。
何かを選ぶときに、他のヒトは何を選んだのだろう、どれが良いと思ったのだろう、と確かめて選ぶ。何かに触れたとき、他のヒトはどう考えたのだろう、どんな意見を言っているのだろう、と確かめて意見を持つ。相場観を得るにはまことに当を得たやり方なのだが、いつか、もうどうでも良くなったりして。
常識もマーケティングも、他人や現象をモノサシにしている。だから他人や現象と一体感があれば、「そうだ、そうだ」とゆったりした気分で尻馬に乗っていても構わない。
ところが尻馬に乗るというのは、他人が乗っている馬の尻のあたりに乗っていることだから、楽チンなのだが、そのうちに何だかつまらなくなる。くだらないことを続けているように思えてくる。ヒトの人生のお供をしているだけに思えたりする。
しかも他人が乗っている馬とは言っても、他人も馬も実在はしていない。常識という、定規のような、秤のような、長屋の大家さんのような、親のような、先生のような、家内のような、安心なような、コワイような、そのすべてを合わせたような漠然である。
常識は、使い方次第では強い味方にもなるが、身を預け切るとむなしい相方にもなる、不思議なものだ。
常識に頼らないということは、他人に依拠しないということで、ということは、他人や世間や家内との関係性に引きずられないで決めるということか。うーん、そんなこと、できるのかなあ。できても人生で一度か二度だろうなあ。そのときは「決断」と言うのだろうなあ。
とは言っても、大きな決断をするには、小さな決断をたくさん重ねて、慣れておく必要があるかも知れない。思い切って、魚ソーを食べたい、と大きな声で言ってみる。それが「決断のヒト」への第一歩になるかも知れない。あるいは、玉砕グセへの第一歩になるか。
2022/6/1 NozomN
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