家庭内にあって難事業と言えば、決めることである。
家内がお出かけしてひとり家に残されたとき、お昼を何にしようかなあという場合は、案外大丈夫だ。急いでコンビニに魚ソーを買いに行って、丸々二本をフライパンで焼いて、ご飯に乗っけてソースをかけていただこう、などとはっきりしたランチの見取り図が描ける。
だが家内に、「お昼何食べたい?」と訊かれると急にあやふやになる。魚ソー二本食べたい!とは言えない。家内は練り物に懐疑的で、魚ソー好きとも思えない。だから一戦を交えるわけにはいかない。常々栄養管理をしてくれているのに、がっかりさせたくはない。
で、「うーん、そうだなあ、どれもおいしそうだなあ」、「どれもって、何も言ってないじゃない。ん、何食べたい?」、「そうだねえ、あれも食べたいこれも食べたいだけど、そうだねえ、うーん、お任せかなあ」
魚ソーの他にも頭をよぎる食べ物はいくつもある。カキフライ(家内は牡蠣アレルギーだ)、トンカツとかメンチカツとかイカフライとか(揚げ物は二週に一度くらいでないと)、ソース焼きそばご飯(何度か口にしたが冗談だと思われている)、カレー(答えるのが面倒なときのサインだと思われている)等々。
どれもすんなり受け入れられそうにないから、アジの塩焼きとなますとか、秋刀魚の味醂干しと卯の花とか、お豆腐とシシトウの薄甘煮とほうれん草の白和えとか、家内のお眼鏡に叶いそうな献立を言ってしまいそうになる。実際のところ、二回に一回は言ってしまうのだが、万度(ばんたび)言えば本当に好きだと思われかねないので、二回に一回は「うーん」となってしまうのである。
大切な相手がいるとき、決めることの難度が増す。相手の気持ちや立場と擦り合わせなければならないからだ。だから相手の好き嫌いや趣味をよく知ってから結婚すべきだ、という人がいるかも知れない。確かにその通りである。初めから気持ちが擦り合わさっていれば、お互いにコマゴマと悩むことはないのだ。
だが、ヒトは変わってゆくのである。何が変わるか。まず、体型である。結婚した頃は、250グラムの焼肉にもやし一袋をつけ合わせてくれた。それに大きい茶碗でご飯を3杯は食べさせてくれた。まことに気持ちは擦り合わさっていたのである。
しかしあるとき吊るしのスーツを買いに行った店の店員から、ぼくが手にしているY体は合わない、AB体から選んでくださいと言われ、とつぜん焼肉は150グラム、ご飯は2杯になった。その後体型の変化とともにお肉とご飯の量は減少し続け、いまではお肉は60グラム、ご飯は80グラムと追い込まれている。
このように追い込まれる前に、価値観の新しい擦り合わせを試みたこともある。「開高健はエラかったねえ、身体を壊したって構わない、痛風の激痛の中で死すとも悔いずとか言って覚悟の美食を貫いた、ぼくにはとてもマネが出来ないよ。美食はダメだから、大食いだけにしておこう」などと楽しく語り合ったりしたのだが、語り合いは、実生活には反映されなかった。
変わるのは体型だけではない。ヒトは気持ちも変わるのである。新しい物事、新しい仕組みへの共有が薄れてくる。「お、これが話題のガリガリ君だね!」、「ん、それはいらない、赤城のイチゴでいいわ」。「ドコモが通信障害を起こすと大変なことになるんだねえ」、「だから私は、そんなものには近づかないようにしているのよ」。
体型も気持ちもその他も、変わりゆくのである。ヒトの世は無常であり、家庭もまた無常である。鴨長明は一人暮らしだったからゆく川の流れを見るくらいで済んだが、家庭にあって無常を見ることは、気持ちのすれ違いを見ることなのである。
話がグチっぽくなってきたが、決めるとは、わが身の問題のようであって連れ合いとの関係性の問題である。広げれば、わが身の問題のようであって世間との関係性の問題なのである。
関係を大事にして決めるか、関係を脇に置いて決めるか。うーん、それを決めるのもムツカシイところだ。
2022/5/4 NozomN
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