書斎から NozomN の書斎から

分からず屋

 だんだん、分からず屋になってきた。

 分からず屋になる道はいろいろあるだろうが、ぼくの場合は、早合点によってこの道に入ったようだ。

 「何かついでに買ってくるものはあるかい?」とぼくが訊く。
 「お茶を買っておいてもらおうかしら」と家内が洗濯物を畳みながら答える。
 ぼくは台所を点検し、メモを取り、出かけた。

 「そんなに何もかも買ってこなくても良かったのに」と家内があきれ口調で言う。
 「いや、どれも残り少なくなっていたんだ。調べてみたんだ」とぼくは弁解気味に言う。

 煎茶3袋、ほうじ茶2袋、紅茶2缶、ジャスミン茶1缶、それにずいぶん探し回ってそば茶3袋。そんなにいっぺんに買い足さなくてもいい、家内にそう注意された

 言われてみれば、もっともである。スジの悪い買物になってしまった、とは思う。だけど、買物をしているときはぼくなりの考えもあって、この考えが悪いようには思えなかったのだ。早合点していたのである。

 一度の買物で済ませば、手間が省ける。それに、交通費が少なくて済む。それに、……、感染症にかからなくて済む。それに、……、ええ、それに。あれ、もっとたくさんの理由(わけ)があったはずだけど。

 ぼくがわけを並べて考えるのは、仕事で得た流儀かも知れない。仕事ではメリットとデメリットを並べ、優先度を考え、効率を確かめ、効果を検証してモノゴトを決めていた。だが、家庭生活では、そうしたやり方が通用しないことがある。いや、ほとんど通用しない。

 「ほどの良さ」の方が、よほど大事なのである。わけを徹底解明しないことも大事だ。だんだんそういうことがわかってきたのに、昔の仕事の流儀が抜けないのである。

 仕事の流儀だけではない。たくさんの知識、貴重だと思っていた経験が、ときどき噴出する。大事であったことは、いまでも大事であって欲しい。周りにも、そこをわかってもらいたい。そんな脆弱に引きずられるのだ。

 でも、いい加減に捨てた方が良い。新日本製鐵の鐵が「鐵は金の王なる哉」から成り立っていて、そこから始まる物語があったことなど、もう後生大事にしなくてもいいのだ。いま居る世界、いま暮らす時間をしっかり掴んで、そこで素直に生きればいいのだ。

 成功体験を抱え込みすぎた事業は失敗する。成功が復讐するのだ。ぼくが分からず屋になったのは、ぼくが大事にしてきたモノたちからの復讐だ。そうだ、分からず屋を脱するのだ。

 ぼくは古いノート全部をひもで括り、新しいノートを開いた。そして、分からず屋を脱する5つのステップを書き始めた。

2021/1/13 NozomN

   

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