草稿ノート草稿ノート

キリコ(幻想都市紀行5)

ポートランドはジョルジョ・デ・キリコの絵に似ている。

キリコ画集表紙

▲〈Mystery and Melancholy of a Street〉Giorgio de Chirico 1914 /『DE CHIRICO』TASCHEN社 表紙より

 キリコは自分をメタフィジカル・アーティストと呼んでいた。彼は見える世界の背後にある不思議を描こうとした(メタが「背後」でフィジカルが「見える世界」の意味だとすれば)。

 画集の表紙に掲げられた絵の、何とも言えない懐かしさといったらどうだろう。古代のような、今のような、自分の見知った場所のような、既視感に溢れた絵だ。だが、絵がちょっとおかしい。

 左右の建物は遠近法が強調されている。けれども遠近法の消失点はいくつもあり、それらが激しくズレ合っている。日が差した道の消失点は手前に向かっているし、日差しと影の関係も矛盾している。

 メタフィジックの日本語は〈形而上〉なので、キリコの絵は〈形而上絵画〉と呼ばれる。〈形而上〉は哲学の言葉で、「ものごとの真の姿」の意味だ。

 「ものごとの真の姿」は目には見えない。そんな見えないものを絵に描こうとすれば、見たままを描いたのではどうにもならない。だからちょっとヘンな絵になる。

 キリコが最初に描いたヘンな絵は、「ある秋の午後の謎」と題されたそれだった。

キリコ「ある秋の午後の謎」

▲〈The Enigma of an Autumn Afternoon〉1910 / 前掲書より

 この絵を描いたときの不思議な感覚を、彼はつぎのように述べている。

ある澄みきった秋の午後、私はフィレンツェのサンク・クローチェ広場の真ん中のベンチに坐っていた。もちろんはじめてその広場を見たのではなかった。(中略)その広楊の中央には、長い上着を着て自分の作品を身体によせてしっかりと抱き、物思いにふける頭に月桂樹の冠をいただいたダンテの彫像がたっている。(中略)その時私はこれらの物をはじめて眺めるといった不思議な印象をもち、その絵の構図が私の心の眼に明らかにうつった。
(「ある画家の瞑想」(岩倉翔子訳)『25人の画家(25)キリコ』中原佑介・編集解説、講談社1981)

 よく知る広場を、キリコは初めて見るように感じた。同時にキリコは、そこに見える現実の向こう側に、何ものかを見たのだった。

 ポートランドはキリコの絵に似ている。ポートランドは明るく朗らかな都市なのだが、しばらく滞在し、周りが見えるようになると、少しずつヘンなのである。ヘンな姿の向こう側に、別のポートランドが立ち上がってくるのだ。

2021/1/23 NozomN

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