歴史小説を読んだり、古典にあたったり、ある人物や出来事に眼を凝らすとき、水先案内をしてくれるのが年表である。先の源氏物語、方丈記、平家物語なども、まず年表を作ってから書く。いつも使っているのが、吉川弘文館『日本史年表・地図』である。初版が一九五五年で増補を繰り返し、毎年版を重ねるロングセラーだ。
『日本史年表・地図』の編者児玉幸多は、明治四二年の生まれで、学習院大学の学長を務め、昭和天皇、現・明仁上皇の日本史教育も担当した。この年表のグランドデザインはまさしくこの人のものである。
手元にある最新の『日本史年表・地図』は一九九五年第一版、二〇〇七年第一三版第一刷とある。九五年がフルモデルチェンジの年で、現在史を一年ずつ加えながら一三年目となった版だ。フルモデルチェンジの年に、児玉幸多は九八歳で亡くなった。
たとえば年表で一二世紀から一三世紀を眺めてみる。ここには平氏の全盛と衰亡があり、北条氏による武家政権の確立があり、元寇以後の鎌倉幕府の衰微がある。
九世紀に始まった藤原貴族文化は根強く残っているが、あのおおどかな風は陰をひそめ、文芸は無常観に支配されている。山家集も方丈記も平家物語も、この時代のものだ。
仏教は輸入文化の域を脱して顕教か密教か、来世か今生かの大衝突時代に入っている。法然が専修念仏を唱え、親鸞が生まれ、栄西が臨済禅を広め始める。
何という時代だったのだろうか。ここに登場する人物たちは、お互いに結びついたり反発したりしながら、互いを知り合っていたに違いない。ぼくは栄西が二度も渡った宋の地図に見入る。こんな地図を用意してくれているのも『日本史年表・地図』ならではのことだ。
歴史地図の凝縮性。人と時代と時間とが幾層にも重なり、過去を現在に、現在を過去に引き込んでくれる。この時代の、たとえば一一七二年に生まれ一二三二年に入寂した栂尾(とがのお)の上人明恵(みょうえ)の六〇年を切り取ってみる。
西暦 明恵 時代
1172 0 平清盛の女徳子中宮に(1181建礼門院)
1173 1 明恵生、親鸞生、文覚伊豆配流
1175 3 法然専修念仏提唱
1176 4 円成寺大日如来像(運慶)
1177 5 鹿ヶ谷の密議(僧俊寛等配流)
1180 8 源頼朝挙兵(石橋山の戦い)
1181 9 平清盛没(64)、鴨長明集
1183 11 解脱笠置山入、保元、平治物語
1184 12 千載和歌集(藤原俊成)、一ノ谷の戦い
1185 13 屋島、壇ノ浦の戦い、安徳天皇入水(8)
1186 14 栄西再入宋、頼朝西行に和歌弓馬の道問う
1190 18 東大寺再建(重源)、西行山家集(73)
1191 19 栄西帰朝臨済宗を広む
1192 20 後白河法皇没(66)、源頼朝鎌倉幕府
1194 22 禅宗弘通禁止(延暦寺強訴による)
1198 26 興禅護国論(栄西)、選択本願念仏集(法然)
1199 27 源頼朝没(53)
1203 31 親鸞結婚
1205 33 新古今和歌集
1207 35 専修念仏禁(法然・土佐、親鸞・越後配流)
1212 40 摧邪輪、法然没(80)、方丈記(鴨長明)
1213 41 金槐和歌集(源実朝)
1215 43 栄西没(75)
1219 47 源実朝(28)公暁に殺さる
1220 48 愚管抄(慈円)
1221 49 承久の乱、六波羅探題設置
1224 52 教行信証(親鸞)
1227 55 道元帰朝
1231 59 道元正法眼蔵起筆(53年87巻未完で没)
1232 60 明恵没す、貞永式目、御成敗式目制定
年表を作ってわかることがある。明恵が後に激しく批判した相手が法然だが、明恵がその弟子である親鸞と、同じ年に生まれたことを知る。また明恵が生まれる前年は、後の建礼門院である平徳子が高倉天皇の中宮になった年だ。平氏の有頂天である。
そのわずか一三年後、平氏は屋島、壇ノ浦の戦いに破れ、徳子の息子である安徳天皇は八歳で入水して果てた。徳子は生き残って尼となり、大原寂光院で安徳天皇と平氏一門の菩提を弔って余生を終えた。
何年前だったか、三月中旬に訪れた大原の里は、淡く降る雪の中にすっぽりとくるまっていた。寂光院はさらにその奥に姿を潜めていた。あれもこれもただ春の夜の夢の如き世の中で、栄西は『興禅護国論』を著して禅宗を国の柱にしようと唱えた。同じ年、法然は『選択本願念仏集』を著して称名念仏を説いた。
このとき二六歳だった明恵は、一四年間かけて周到な準備をし、四〇歳で『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著した。法然の「称名念仏」が悟りを開く覚悟がなく安直だと、激しく批判した。その年、法然は八〇歳で没している。
その明恵も一二三二年、六〇歳で入寂した。この年に制定された貞永式目と御成敗式目は、武家政権が確立された大きな証だった。制定には明恵と不思議な師弟関係を結んだ、時の執権北条泰時があたった。式目は明恵のデザインだと言われる。
この年表の断片には、まだまだ幾百幾千の物語とその分流がギッシリと詰まっている。たとえば――。明恵が生まれた年に伊豆に配流された文覚は明恵の師匠筋で、その間には叔父の上覚がいた。
上覚は文覚の配流先にまでつきそった弟子で、明恵を学問、詩歌、出家、受戒などに導いてくれた。しかし晩年の贈答歌(和歌を使った会話、源氏物語では男女の会話として多用)のやり取りから、この叔父が明恵にあまり大きな影響を与えなかったことが窺える。
みることはみなつねならぬうきよかな
ゆめかとみゆるほどのかなしさ 上覚これに返して
ながきよの夢をゆめぞとしる君や
さめて迷へる人をたすけむ 明恵
あたかもコロナ禍に遭遇してへたり、おろおろとして定まらぬ叔父を、明恵が叱咤しているかのようだ。この叔父の先にいる文覚にも、明恵は惹かれなかった。その点では法然・親鸞の師弟関係に羨望があったのだと思う。
現世に仰ぐべき師を持てなかった明恵は、釈尊の子と名乗るようになる。そして法然とねじれた相似を見せる。対立も共感も、時代を共有した者たちの産物なのだ。
たとえばこのように案内してくれる『日本史年表・地図』に導かれて、明恵の六〇年から、次はどう年表を切り取り、どこへ行こうかと考える。浄土宗の世界へ、華厳の世界へ、明恵上人その人の中へ、あるいは明恵の生涯のどこかの時点で行き会ったに違いない西行との出会いへ、行く道はたくさんありそうだ。
またあるいは、明恵入寂の五〇年後に生まれた吉田兼好の『徒然草』の小話へとショートカットしてもよい。
栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふをのこ、「あしあし」といひければ、上人立ちとまりて、「あなたふとや。宿執開発の人かな。阿宇々々と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ、あまりにたふとく覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候」 と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあなれ。嬉しき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。(『徒然草』一四四段)
明恵は馬を洗う男の「あしあし」を「阿宇々々(あじあじ)」と、「府生殿(ふしょうどの)」を「本不生(ほんふしょう)」と聞き違えた。いずれも仏法の根源的な唱えだと勘ちがいした明恵が、涙を流さんばかりに感動した、という話である。透徹の批評家兼好は、明恵のおっちょこちょいを嗤ったのではない。そのあまりの純真無垢に驚嘆したのである。
『日本史年表・地図』に乗って、歴史をどこまでも、どこにでも行ってみる。
2020/5/10 NozomN